人形の館
山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館として歴史上由緒ある地頭仮屋敷跡(役場)に建てられ、人形や写本(台本)など貴重な資料が保存・展示されています。また、定期公演も行われます。
みやこんじょん やまんくっの
自然はみごちもみごち
くもんも んめもんめ ずばあっど
たしねな おもひちか 文化も
あいもんで よかとこじゃ
どうぞあすっけ 来てくいやんせ〜
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都城市山之口町の自然は美しく
美味しい食べ物も沢山あります♪
貴重な面白い文化もあり素敵な場所です!
どうぞ遊びに来てくださいね。
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山之口地区まちづくり協議会
ホームページ ▶︎ https://yamanokuchi.net/
山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館として歴史上由緒ある地頭仮屋敷跡(役場)に建てられ、人形や写本(台本)など貴重な資料が保存・展示されています。また、定期公演も行われます。
推定樹齢500歳、樹高26m、幹回り440cmで国有林内にある代表的な巨樹・巨木「森の巨人たち100選」として林野庁より選定されています。また、みやざき新巨樹百選にも選定されていて巨木が見守る悠久の時間に浸れる空間です。
南北朝期に肝付兼重が籠城したと伝わる松尾城(三俣城)跡に山之口町制施行30周年記念事業で平成6年(1994)に開園しました。
春には桜、そして初夏を彩る53種28,000本の あじさい、秋には紅葉が人々を楽しませてくれます。標高217mに建つ展望台からは霧島連山を眼前に都城盆地が一望できます。
大淀川支流境川の渓流沿いにある四季折々の自然が楽しめる自然公園で、周辺には青井岳荘、キャンプ場、多目的広場などがあります。また青井岳(標高563m)の登山口や薩摩古道への登り口も近くにあります。
青井岳渓谷ライン(国道269号)の利用者のオアシスとなっており、物産館は地元の特産品の販売を行っています。また、6次産業化支援の加工センターやお食事処「あじさい館」 を併設しており、買い物からお食事まで楽しめます。
トロッとした肌触りの泉質が特徴の天然温泉で、美肌の湯として知られています。
近くを流れる境川のせせらぎと四季折々の自然が満喫でき、心と体を癒してくれます。
山之口登り口周辺には人形の館、走湯神社、古道途中には淡島神社、石積水路橋、青井岳登り口周辺には青井岳自然公園など様々な史跡が点在する、距離14kmの自然豊かな散策道です。
弥五郎どん祭りの主役である「弥五郎どん」及び浜殿下り行列(御神幸行列)の様子を表現した模型などの展示や、弥五郎どん祭りの歴史・文化を紹介をしています。
高台にある農地の取水に苦労していた地域のため、小野田長左衛門が明治38年(1905)の頃より私財売却等を行い7年の歳月を掛けて農業用水路として築いたものです。
都城市山之口町と宮崎市田野町の市境を流れる大淀川水系境川に建設された
ロックフィル式の農業用水ダムです。春には1,000本の桜の花が癒してくれます。
養老4年(720)大和朝廷による隼人征伐がその由来で、1,000年を超える歴史の中で先人から大切に保存・継承されてきた祭りです。中でも浜殿下り行列(はまくだり)(御神幸行列)は古式豊かな一大絵巻で弥五郎どんが子どもとともに浜殿下り行列の先導役を威風堂々と務めます。祭りは毎年11月3日(祝)に開催されます。
平成7年(1995)に国の重要無形文化財に指定された、17世紀後半に大阪で浄瑠璃太夫として活躍した岡本文弥が語る人形浄瑠璃です。「泣き節」「愁い節」とも呼ばれる、哀愁を帯びた独特の節廻しで演じる古浄瑠璃で、全国に4箇所しか残っていない貴重な伝統文化です。定期公演は毎年3、6、9、11月の第3日曜日に行われます。
あげ馬は神に献上する馬、神前に捧げる馬として「あげん馬」、「献上馬」と呼ばれ、献上馬と憑座(よりまし)(稚児)を中心に据え神事の行列を組むこのあげ馬は薩摩藩内都城盆地の諏訪神社4社のみに残された貴重な伝統文化です。まつりは4年に一度7月に開催されます。
幕末の頃、島津藩の財政再建のため時の家老調所笑左衛門広郷が指宿の豪商浜崎太平次と計りこの地に寒天工場を設け、原料のテングサは甑島を中心に薩摩西海岸から運ばれてきました。
南北朝期の建武3年(1336)足利尊氏の命により宮方日向国三俣院の肝付八郎兼重攻略のために関東より派遣されてきた畠山直顕の大将、土肥平三郎実重が山之口城に居を構え、この地に伊豆国走湯権現社の分霊を勧請し創建したものです。
社伝に和銅2年(709)創建とあり、往時は上下諏訪大明神と称し7月27日の夜には民衆行列をなして参詣し、的野正八幡宮浜殿下りに次ぐにぎやかさであったとあります。
和銅3年(710)元明天皇の奈良朝時代の創建と伝えられ、大隅国分寺正八幡宮(現在の鹿児島神宮)の末社だとされています。
藩制時代の安楽寺は飫肥藩清武村田上にありましたが、山之口郷内信者の熱望により明治26年(1893)3月にこの地に移転しました。
藩政時代の麓は山之口の政治行政の中心地でした。沢山の武家門、石垣、曲折の多い路地など地区防衛のための戦略的武家屋敷跡が残っており往事(むかし)の名残りを留めています。